クマネコと猫おじさん  クマネコ、と始めに呼んだのは誰だったろう。僕ではなかったと思う。  まるで熊のように、のっしのっし、と歩くから、クマネコ。  小学生のネーミングセンスは安直で直感的だ。  薄汚れた風体のクマネコは夕方になると決まって、のっしのっし、とどこからともなくその大きな体を揺らして公園に現れ、香箱を組んでいた。  小学生だった僕は、下校途中に猫じゃらしを摘んではクマネコの前で揺らしたものだが、彼は一瞥するだけで見向きもしてくれなかった。それでも根気強くコンタクトを試みたものの、とうとう遊んでくれる事はなかった。  クマネコと言えば、公園にはもう1人、名物おじさんがいた。  彼も夕方になると決まって公園に現れ、いつの間にかベンチに座っている。ジャケットもポロシャツもズボンも帽子も、頭の上から爪先まで黒一色に身を包む彼を、小学生たちは不気味がった。  ひょろりと痩せ、細面にはサングラスという出で立ちのせいもある。左手に生々しく浮かんだケロイドもその一因。  おじさんは公園に、ビニール袋を片手に現れる。その中にはいっぱいの猫缶が詰まっていて、野良猫たちに黙々と与えるのだった。  当然、おじさんの周りには野良猫がごっそりと集まる。公園で見るおじさんの足元は、いつだって毛玉で埋まっていた。  その様相から僕らは、猫おじさんと呼ぶようになった。  猫缶で野良猫たちを吸い寄せる彼に、しかしクマネコだけは近寄りもしなかった。僕にそうしたように、一瞥するだけで見向きもしない。猫おじさんの周りを野良猫たちが取り囲む中で、薄汚れたクマネコは離れた場所であくびしていた。  僕ら小学生の中で、猫おじさんは地獄からの使者だ、というのが通説だった。  猫缶で誘い出した野良猫たちの一匹を連れ帰って晩ご飯にする、であるとか、ケロイドは実は地獄の紋章で、その左手につかまれたら地獄に引きずり込まれる、であるとか、クマネコだけはそれを察知しているから彼に近寄らない、であるとか。  僕の周りでは、猫おじさんは死神のような存在だった。  その死神と、たった一度だけ話した事がある。  どうして話したのかは憶えていない。僕から話しかけたのか、猫おじさんから話しかけられたのか。  話した内容も朧げで、唯一憶えているのは、 「猫というのは、自分を傷付けるような相手はわかるんだよ」  その声が思ったより若かった印象がある。  おじさんの足に擦り寄る猫を撫でた左手のケロイドは、間近に見ると存在感があった。けれど、皆が言うような、地獄に引きずり込まれるなどという、禍々しいものには到底思えなかった。  やがて、おじさんの姿を見掛けなくなった。  あれだけ賑やかに集まっていた猫たちも、おじさんがいないなら――餌にありつけないのなら、と言わんばかりにその姿を見せなくなった。  それでもクマネコだけが相も変わらず、重そうな体を横たわらせていたのだった。  小学校から中学校、高校へと進学する中で、いつからかとうとう、クマネコの姿も見なくなった。大学に進学が決まって一人暮らしを始めてから、あの公園に近付く事もなかった。  クマネコの事も、猫おじさんの事も、すっかり忘れてしまっていた。  今の今まで。 「うん。そういう事ってあるよね」  それまで黙って聞いていた妻が顔を上げた。 「ずーっと忘れてた事なんだけど、そこに行くと忘れてた事を思い出す、みたいな」  婚約報告以来3年ぶりに帰って来た街を、妻と2人で歩いている。息子は今頃、実家の父と母に大いに甘やかされている事だろう。 「そういう事、ある?」 「あるよ。私の中にある記憶がパカッと開く、って言うよりも、その場所に私の記憶が落ちてるような」  そこに記憶が落ちている――そう、そんな感じ。  妻と2人で歩く住宅街に、クマネコと猫おじさんの記憶が転がっていた。 「せっかくだし、その公園に行ってみようよ。どんな公園だったの?」  妻の目が宝の地図を見付けたように輝いていた。 「広い公園だよ。遊具は大きな滑り台しかなくて、広場じゃケードロとか缶蹴りとか、サッカー野球とかやってた」 「サッカー野球?」 「知らない? サッカーボルでやる野球」 「あ、フットベースの事ね」 「へぇ、そう言うんだ?」 「ちっちゃい頃の遊びって、場所によって名前違ったりするもんね。私んとこじゃケードロじゃなくて、ドロケーだったし」  春の陽気には、他愛もない会話も散歩も、相応に思えた。  猫おじさんと話したのも、このくらいの時期だったかと思う。寒くもなく暑くもない、暖かく穏やかな季節。  地獄の使いと呼ばれていたおじさんと、熊の名を付けられた野良猫。彼らはお互いに歩み寄る事はなかったが、どこか深いところでつながっていた、と思うのは考えすぎだろうか。  彼らの姿が公園の風景にピタリとはまって見えたのは、幼心の至らなさだろうか。  公園にポツリと残るクマネコの姿を見て感じた、もの寂しさのようなものは。 「――ここだよ」  足を止めると、妻はきょとんとした。 「ここ?」 「うん、間違いない。ここ」  僕が示した先を妻が振り仰ぐ。次いで、僕も見上げる。  記憶の中にある公園。  そこには今、ピカピカのマンションが何食わぬ顔で立っている。 -------------------------------------------------------------------------------- Title : クマネコと猫おじさん Release on Web : 2010/05/09 CC : http://creativecommons.org/licenses/by-nc/2.1/jp/ Mail To : nakosokan@gmail.com 「クマネコと猫おじさん」by nakoso is licensed under a Creative Commons 表示-非営利 2.1 日本 License. Based on a work at http://bottlenovel.blog.shinobi.jp/ 総文字数  :2131文字 原稿用紙換算:7枚(20字×20行=400字詰)