1  彼はかつて、信じていた者から捨てられた。空っぽになった屋敷は一人の身には到底広すぎて、シャンデリアに照らされた豪華な室内は今や埃とクモの巣に塗れ、見る影もない。火をくべる手を失った暖炉は終始静かなもので、黒く煤けたままクモたちの住処と成り果てた。 大人しく待っているんだよ――彼の頭を撫でた大きな手は、ドアの向こうに消えたまま帰って来る事はなかった。呼び鈴が鳴った事はある。しかし彼は出ない。私がいない時には、たとえ誰が来ても出てはいけないよ――常日頃から言い付けられていた事を、彼は忠実に守っていたのだった。  彼は待ち続けた。ドアが開かれる事を。見慣れた影が現れる事を。あの大きな手に、頭を撫でられる事を。  繰り返し鳴らされていた呼び鈴が、やがて三日に一度になり、一週間に一度になり、一ヶ月に一度になり、それっきり鳴らなくなった。大きな手は帰って来ない。ドアの蝶番がすっかり錆びた頃、自分は捨てられたのだと自覚した。泣く事は、自分が許さなかった。  大きな手が家を出て行った時、窓の向こうには白く染まり切った世界が映っていた。晴れになり、雲が覆い、大雨が打つ窓は、再び白く染まり上がった。埃の匂いばかりをまとって久しいベッドから呆然と外を眺めていた彼の耳を、懐かしい音がかすめる。歯軋りに似た音こそ違うものの、その前に聞こえたものは、たしかに鍵の開く音だった。 もしかして――ベッドから跳ね起きた彼は寝室を飛び出し、廊下を駆け抜け、玄関への階段を転がるように下りた。もしかして――だが彼の予想と期待は、実りを得る事なく枯れ落ちてしまった。玄関には人影などまったく見当たらない。入り込んだ風に身をすくめ、ため息と一緒にうなだれる―― ――風? 垂れた視線がおずおずと上がる。ドアがわずかに開いていた。風はその隙間から吹き込んでいるようだった。恐る恐る顔を出してみたものの、空から雪の舞い落ちる風景には誰の姿もない。玄関を振り返った彼の胸が、ほんの少し痛んだ。  自分は捨てられた――そう呟いて、外へと踏み出す。これまで見上げていた天井とは段違いの高さを仰いだところで、雪が目に飛び込んだ。あまりの冷たさと唐突さに驚いて目をこする。しゃくり上げて吸った空気はひやりとするものの、埃臭くない。窓くらい開けておけば良かったと今更ながら思いを馳せる。  今や彼の周りには世界が広がっていた。閉じ篭もっていた不健康な環境から一転、白雪の舞う世界が。後腐れがないと言えば嘘になる。しかし、それは誰より彼自身が許さない。自分を捨てた者への執着なんて、とっとと捨ててしまえばいい。 彼にとっての新しい一歩を踏み出す。外界への一歩は、しかし早々に阻まれる事となる。 「あれ?」  幼く小さな体躯が差す、傘もまた小さかった。目の前に立ち止まったピンクの長靴の爪先が彼を向く。見つめるつぶらな瞳が笑顔に細くなる。 「こんにちは」  こうして彼と彼女は出会い、ひとつの物語が幕を開く。      2 北極圏に程近い地理のせいで、シー=ド=ルシールの冬は寒さに厳しい。夏は避暑地として有名ながら、冬は観光客が減る。それでも皆無になる事がないのは、この寒さのおかげで脂の乗った魚が獲れる港町である事と、街の海岸から望む、一面の海に降り注ぐ雪の景観だった。港町であれば雪の海などどこでも見られるものだが、数年前にとある名高い画家が描いた、ルシールの冬の海が有名になってからというもの、この目で見てみたいという物好きな観光客が増えたのである。街としては収入源である時期が増えて結構な話だが、何がきっかけになるかなどわからないものである。  こういった街の事情との関連性こそ皆無に近い聖アリアテ教会は、ルシールの北東にひっそりと佇んでいる。十字架を掲げず、レンガ造りの五階建ての建造物は一見すると住宅マンションと見紛う面構えで、入り口の看板を取り外した日には物件探しの人間が迷い込んでもおかしくはない様相を呈していた。事実、看板を見ないまま部屋を借りに来た人間は今でもなお、年に一回の頻度で現れる。 「お貸しする部屋はありますが、ここは孤児院としての役目もありますので、おいそれとお貸しする事ができないのです。教会に部屋を借りる事をファッションのようにお考えになっている方も最近は多く見受けられますが、子供たちからすればまったく関係ありません。大声で騒ぎながら駆け回る事もあれば、拍子で物を壊してしまう事もありますでしょう。それでもここに住みたいと願うのであれば私たちも受け入れますが、堪忍ならないという事であれば――少しでも迷うのであれば――どうかお引き取り願えませんでしょうか」  一言一句丸暗記しているかのような口上に丁寧な物腰をセットにして対応するのが、シスター・サクラこと、サクラ=スフォルツァンドの役目だった。  弱冠17歳にして聖アリアテ教会孤児院院長を務め上げる彼女の性格はどこまでも温厚篤実。建物に入り込んだ虫の類にまでも温かく柔和に接する人柄は孤児たちから人気を博していた。身長148センチ、いつも実年齢より幼く見られる童顔がコンプレックス、である事は彼女の胸の内だけに秘めた秘密である。 「また、こんなに」  聖アリアテ教会一階の奥にある院長室。聖書、聖人に関する本を詰め込んだ本棚が壁を隠す部屋、その南側の窓を背にしてサクラが嘆いたのは、コンプレックスのせいでは決してない。文鎮を思わせるどっしりとした黒塗りの木机を前に、木組みのイスに腰を落ち着かせる彼女の手には、一枚の振込手形があった。孤児院の維持のために寄付はうれしいのだが、サクラの手にあるそれはあまりにも桁数が多かった。 「これを見たら、お母様はどんな顔をするのかしら」  先代の院長――いや、二年前に他界した母親の顔を思い浮かべる。しょうがない子ね、ほんとに――心の中の母親は困ったように笑うのだった。 「無下に断るわけにもいきませんし、そもそも自分だと認めないでしょうし」  手形に書き込まれた名は、宛先人であるサクラの名前のみ。 「筆跡鑑定でもやってやろうかしら。あ、比較するための本人の筆跡がないじゃない」  ついたため息が吐き切られるのを待たず、彼女の鼻先が上がった。地鳴りのような音がかすかに聞こえたかと思えば、みるみる輪郭を大きくする。極めて局地的な直下型地震へ、誰何など求めるまでもない。 「嵐の予感」  街の音を無力化する雪を窓越しに振り返るのと、破壊的な音を伴ってドアが勢い良く開け放たれたのは、ほぼ同時だった。 「雪の日くらい、静かにできないものでしょうか」  手形を机に置いた手で立ち上がる。皮肉めいたセリフでも笑顔を維持するサクラの視界に、ドアを蹴り飛ばした体勢のまま立つシスターの姿があった。 「両手ふさがっちゃってたから、ドア開けるのが足しかなくって」  と、彼女は足を下ろす代わりに顔の位置まで両手を持ち上げた。左右の手それぞれに少女と少年が、まるで子猫のようにぶら下がっている。なるほど、たしかにこれではまともにドアも開けられない。よくよく見れば、2人とも服は汚れ、顔には擦り傷さえある。 「ハルネ……」  笑顔の引っ込んだサクラの唇が、絶望めいて呟いた。 「あれだけ子供たちには手を上げるなと」 「サクラ。私がそんな事すると本気で思ってる?」 「いいえ。これっぽっちも」  満面笑顔に塗り変えたサクラに対し、シスターハルネの唇はへの字に歪んだ。 「時々思うわ。あんたへの認識を改めようって」  彼女のぼやきは聞こえないものとする。 「ステフ、ロディ。シスターハルネに首根っこつかまれるほど、今度は何をしでかしたの?」  ハルネに下ろされた2人は、しかしふてくされるばかりでお互いに話す気など毛頭ない様子。少女はそっぽを向き、少年に至っては、けっ、と唇を尖らせる。真上に振上げられたハルネの拳が落下するより早く、サクラは口を開いた。 「ステフ」  2人の前まで移した膝を折る。自然、見上げる格好になった少女――ステファニー=モロゾコフのふっくらした頬を撫でた。まだまだ幼い顔に張り付いた擦り傷が、ひどく痛々しい。 「女の子が顔に傷なんて作って。せっかくのかわいい顔が台無しじゃない」  次いで、少年――ロディ=レクルノの額と前髪の間に、もう片方の手を差し込む。サクラの手も小さいが、少年の額はさらに小さい。 「ロディ。男の子に傷は付き物だと思うけれど、理由によっては、さてどうでしょう。勇敢な理由であるなら、私は決してあなたを悪く言いません。いいですね?」  2人の顔をそっとサクラ自身に向け、幼く丸いそれを交互に見つめる。 「何があったのか、話してくれますか?」  言うが早いか、堰を切ったように一斉に2人の唇が動いた。張りがありながらも鋭い少女の声と、甲高く意地っ張りな少年の声が、息継ぎの間も惜しいほどに早口でまくし立てる。ロディがひどい事を言った、ステフはうそつきだ、ロディが頭をぶった、ステフが髪を引っ張った、云々。威勢のいいソプラノとソプラノの、男女混声の嵐の前にあって、それでもサクラは笑顔で耳を傾けた。互いが互いに譲る事なく繰り出される主張はやがて罵声に変わり、取っ組み合いに発展―― 「はい、それまで」  ――する直前、2人は再びハルネに摘み上げられたのだった。 「話はわかりました」  す、と衣擦れをまとって立ち上がったサクラは、 「どちらが悪いとは言いませんが、喧嘩両成敗……と言って、わかりませんよね」 「けんか」 「りょーせーばい?」  ステファニーとロディの頭上で、ふよふよと疑問符が泳ぐ。 「2人とも、今夜はネズミ駆除です」  軽やかに言い放つサクラの笑顔は、2人の顔をものの見事に引きつらせた。 ネズミ駆除――聖アリアテ教会の孤児たちに最も畏れられている罰の名である。ならば食事抜きにされた方がまだマシだと、彼らはそろって口にする。 聖アリアテ教会の地下には貯蔵庫がある。頼るには心許ないばかりの裸電球が揺れる姿を横目に、貯蔵庫の扉の前で一晩過ごす――地下特有の湿った空気と、カサカサと何かが動く音。おまけに裸電球は寿命を間近に迎えているせいで気を抜くとチカチカと明滅するものだから、子供たちは落ち着いて眠る事もままならない。 誰が呼んだか『ネズミ駆除の刑』。発案はハルネ=アイバニーであった。 「ネズミ退治しろだなんて、一言も言った事ないんだけど」 「それが子供のネーミングセンス、なんですよ」  子供たちは寝静まり、夜の静けさの中で柱時計が均一に時を切り分ける音だけが鳴る院長室。応接用にと部屋の中央に用意してあるテーブルでは、サクラとハルネが向かい合って座っていた。 「もう一杯、どうですか?」  ハルネの前に置かれたカップが空いている事に気付いたサクラへ、片手を上げて応える。 「もうお腹がタプンタプンよ」 「そんなに肉厚には見えませんけれど」 「そういう意味じゃなくて」 「冗談ですよ、冗談」  上機嫌に笑うサクラには付いていけないと、手を振るハルネだった。が。 「ところで、ハルネ」  サクラが落とした話題転換にすぐさま身を引いて頭を隠す。 「ヴェールは付けないからね。何と言われようと付けないからね」 「少しは負い目があるんですね」  わがままな子供を彷彿とさせる彼女の挙動は、とても年上には思えない。子供たちの就寝時間が来るや否やヴェールを脱ぎ捨て、脱兎の如く外へ飛び出したかと思えば雪の積もった庭で紫煙をくゆらせる。神に仕える身とは程遠い彼女ではあるが、子供たちを愛する心は人一倍どころか、人十倍強かった。 そして何より、青みを帯びた艶やかなハルネの黒髪はサクラにとって、眺める価値のあるものだった。二重のまぶた、伸びる鼻梁から成る顔立ちは端整にして、すらりと長い手足は歩いているだけで様になる。サクラの持っていないものを備えているという点でも、尊敬と羨望に値する従姉だった。 「そんなに見つめたって、絶対に付けないから」  なおも食い下がるハルネへ、ふっと笑う。 「ヴェールはいいんです。私が話したいのは別の事で」  ハルネの警戒心が一気に解けた。 「何か困った事でもあるの?」 「ステフの話、です」 「ステフの、か」  と神妙な顔付きで頷くハルネは神妙に続けた。 「私にはうるさい音にしか聞こえなかったんだけど」 「ええ、顔に書いてあります」 「今度こそあんたの認識改めてやる」  ハルネのぼやきは、やはり聞こえないものとする。 「ステフは利口な子です。嘘をつくような子には思えないんです。でも、ロディの言葉もまた本当なのだとしたら」  サクラの視線が柱時計の文字盤にぶつかった。 「そろそろ、いい時間ですね」  と腰を上げれば、すかさずハルネが不平を投げ付けた。 「こらこら、まだ話の途中じゃない。それ以前に私、置いてけぼりくらったままだし」 「そんなに急かさずとも、ちゃんと話しますよ」  ただ――と、彼女は付け加えた。 「どういう風に相談するべきか、少し考える時間をください」 「どうって。そのまま話してくれればいいじゃない」 「私は、2人を信じたいんです」  サクラの微笑は欠片も崩れないまま本心を差し出したのだが、ハルネの眉から怪訝を払拭するには至らなかった。 院長室を出た2人の足は、廊下から階段を経由して貯蔵庫へ向かった。地下へ潜る階段に、裸電球の明かりからくり貫かれた影が映る。先を進むサクラの背後で、ハルネが欠伸をかました。 「休んでいてもいいんですよ?」 「お迎えが終わったら、ね」  振り返ってみれば、涙を浮かべた彼女の目は明らかに眠たそうではあった。 「では、すぐに終わらせましょう」  階段の執着地点を踏んだサクラの手が、目の前のドアノブに伸びる。黒ずんだ木製の扉が音もなく滑らかに開いた。 孤児たちにとって最恐の名で以って君臨するネズミ駆除の刑は、ハルネの鞭とサクラの飴で成り立っている。しかし発案当初よりハルネは、 「子供を懲らしめるには、これくらいがちょうどいいのよ」  と、貯蔵庫に一晩押し込める事を主張していたのだが、 「それではあまりにも、子供たちがかわいそうです」  といったサクラの反論にぶち当たった。 「お灸を据えるくらいじゃないと、また同じ事しでかすかもよ」  一歩たりとて譲歩するつもりなどない事さえも主張したハルネは、だがしかし、 「院長は私です」  会心の笑顔でポッキリ折られたのである。 「けれど、適度なお灸は必要かもしれませんね」  一度は跳ね返された案ではあったものの、院長が提示した策を盛り込んだ形で、見事日の目を見る事と相成った。すなわち、子供たちには一晩と銘打って罰とするが、夜も更けた頃になれば院長の慈愛という名目の下、子供たちを赦す事とする。当初の一晩から実質3時間ほどに縮まった罰の終了を、サクラはお迎えと呼んでいた。 かくして、ステファニーとロディへの慈愛を遂行するためにドアを押し開いたサクラは、 「あらあら」  階段と貯蔵庫で挟まれた、物置部屋の様子に頬を緩ませた。その後ろから覗き込んだハルネからも笑みが漏れる。 「2人そろって顔強張らせてたっていうのに」  湿度の高い部屋は、ハルネが見繕った寿命間近の裸電球のせいで薄暗く、時折瞬いては一瞬二瞬、純粋な闇が飽和する。子供たちの恐怖する演出が施された空間で、しかしステファニーとロディはすっかり眠りこけていたのだった。 「さっきまで擦り傷作るくらい、ケンカしてたのがうそみたい」 「子供たちが生まれながらに持った、素晴らしい素養です」  見た目だけは重々しい、貯蔵庫へつながる鉄扉にもたれ小さい寝息を立てている。2人、身を寄せ合いながら。      3 闇に慣れ切っていた彼の瞳を突き刺さんばかりの快晴だった。海の上から燦々と降り注ぐ陽光は、ここ数日間の雪が真っ白に飾り付けた街並みで乱反射する。光が踊る純白の街。眩しさと美しさに目を細めた彼は、ほうっと白いため息をついた。目の前の風景はまだ眠っているかのように静まり返り、太陽を掲げる海もまた、遠慮がちに潮騒を鳴らす。1枚の特大絵画を独り占めしているようで、彼の胸は得も言われぬ満足感に震えた。 しんしんと雪が降り積もっていた昨晩、行く当てもなくさまよった彼は街の外れに見付けた水門で夜を明かしたのだった。ぽっかりと黒く開いた口は立入禁止の看板と鉄柵が阻んでいたのだが、元より小柄であった彼の体は、おそらく人為的な力で曲げて作られたであろう、わずかな隙間から難なく入り果せたのである。そこは見渡す限り暗闇しかなかったものの、雪も風も入り込む事がなく、おかげで凍えずに朝を迎える事ができた。 背伸びと一緒に空気を吸い込む。潮の香りは冷たい。鼻の奥がつんとする。慣れない場所で休めた体はぎしぎしと鳴った。凝った体をほぐすためにもと、昨日とはまた異なる風景を歩く事にした。 寒さで引き締まった微風は思いがけず心地良い。白い道が伸びる街に人影はなく、黙々と軒を並べる建物は悠然と彼を見下ろす。街が目を覚ますまで、まだ時間があるらしい。 通りを抜けると視界が開けた。広場として設えられた空間の中心には、一体何を模したのか見当も付かない、オブジェを真ん中に据えた水場がある。彼の視線を引き寄せたのは、水場の縁でぼんやりと座る、1人の青年の姿だった。 眩しそうに海原を眺めていたその唇は、やがてくあっと開き、腰をひねって背伸びする。明るい茶色の髪はミルクティーを思わせた。欠伸さえなければ精悍であろう顔に備えた釣り目が、涙混じりに彼の視線と重なった。空気をかじって閉じた口はそれでもまだもにゃもにゃと動いた後、 「きみも朝の散歩?」  寝ぼけ眼で眠たそうな声は、それでいて安定した低音で以って彼の鼓膜を打つ。顎を引いて頷いてみれば、青年に漂っていた眠気が笑顔に解けた。 「一緒だ」 「冷たくないの?」  歩とそろえて向けた青年への問いは、久しぶりに聞く声だった。自分の声の感触に少し慣れない。 「これ敷いてるから大丈夫。全然、とまでは言わないけど」  腰を浮かせた青年の下にビニール袋が見えた。縁に積もった雪を丁寧にどかした上で、シート代わりに使っているらしい。 「ここで何してるの?」  青年の前に立つ。居住まいを正した青年は、鼻先で正面を示してみせた。促されるまま右に移した彼の視界を、朝陽の残像を散りばめた海が覆う。 「一日の中で、朝陽が一番好きなんだ。中でも、ひとしきり降り切った雪の後は格別。こうして座ってるだけで、ぽかぽかと干されてるみたいで、気持ちよくない?」  と、言葉通り気持ち良さそうな顔で背伸びした。くあっと欠伸をし、海の吹く風をかじり、もにゃもにゃと動く口。 「クルト」  彼に差し出された音吐が何なのか咄嗟にはわからず、首を傾げた。まぶたをこすっていた手は、青年の顎先に人差し指を向け、 「ぼくの名前だよ。クルト。きみは?」  問われて耳の奥に何かを感じたのは、きっと気のせいだろう。あるいは、そこに記憶が転がっていたのかもしれない。もっとも、耳の奥に記憶があるなんて話、聞いた事もないが。 「レイ」  白い吐息は海風に流れた。      4 聖アリアテ教会孤児院院長室。若く、それに増して童顔な院長は沈思にふけっていた。彼女が物心つく頃には母がすでに座っていた机に腰を落ち着かせ、背にした窓越しに聞こえる子供たちの嬌声を、温かく思いながら。 「どうしたものかしら」  思い出したように吸い込んだ息は、呟きとなって流れた。イスの上で腰を九十度回し、窓を振り返る。縦に長い枠で区切られた庭の風景では、丸々と着膨れた子供たちが雪合戦に興じていた。青空の下で飛び交う白い弾が弾ける度、悲鳴の混じった笑い声が響く。実に微笑ましい。 「ハルネ!」  一人の子供が一際高い声を上げる。鼻を窓に近付けて覗き込んでみれば、果たして居丈高に仁王立ちする彼女が見えた。その顔には不敵な笑み。すっと伸ばした人差し指は、今し方彼女の名を呼んだ子供にぴたりと止まる。 「シスターと呼べと言ってるでしょ」 「わかったよ、ハルネ」 「よし。まずは体にわからせてやる」  かくして、子供たち対ハルネの、多勢に無勢な雪合戦が火蓋を切った。 先程にも増して勢い良く飛び交う白玉を眺め、まったく、とサクラは苦笑した。子供たちを愛して止まないハルネは、子供たちを惹き付けて止まない。双方お互いに成立している引力はきっと、源を異にしてはいない、とサクラは考えている。ハルネもまた、孤児なのだから。 「そういえば」  ふと思い出したサクラは、予想通り、ハルネを囲む輪の中にその姿が見えない事に気付いた。 「部屋で読書……いいえ。また、どこかでぶらついているのでしょう」  笑い声を高らかに響かせつつ一斉に投げられた雪玉をことごとくかわすハルネから、サクラは青空を見上げた。 「あの子は本当、猫みたいね――」  ――院長の予想は見事に正解を射抜いた。吸い込まれそうな蒼碧を見上げていたステファニーは急に鼻がむず痒くなって、小さくくしゃみする。何ともなく、来た道を振り返る。雪上に転々と落ちたステファニーの足跡は、他の者と混じり合っていて特定できない。 昼を過ぎたルシールの大通りは、いつもの喧騒はどこへやら、人通りも少なく静かなものだった。どこかで雪遊びに興じているのだろう、時折子供たちの声が聞こえる。鐘を鳴らしながら通りの真ん中を過ぎる路上電車なんて、いつもより身軽に見えた。 家の前で雪掻きする家族の姿を横目に、ピンク色の長靴は雪を踏み潰して進む。目的地なんてない。行きたい場所もない。道があるから、ただ歩いていた。 やがて広場に着いたステファニーは、屋根付きのベンチで休憩を取った。先程から聞こえていた声の発信源と思しき子供たちが、広場の中央、噴水の周りで雪合戦に駆け回っている。隅ではせっせと雪だるまを作る姿も見受けられた。 ――うそつき。 ロディから突き付けられた言葉を思い出し、顔をしかめる。うそじゃない――いくら訴えたところで受け入れてもらえなかった。引っ掻かれた左手の甲がズキリと疼いた。 「おとなり、いいかしら?」  その声が自分に向けられたものだとわかるまで2秒を要した。顔を上げた先には小首を傾げた笑顔。その細腕には、およそ似つかわしくない大きさの紙袋が抱えられている。 「あ、どうぞ」  ようやっと状況を把握し、ステファニーの腰は慌てて横にずれた。 「ありがとう」  紙袋の音に続いて、ベンチが小さく軋む。ちらりと盗み見た横顔は、はしゃぐ子供たちを眩しそうに眺めている。首の後ろで束ねた栗色の髪は背中にかかるほど長く、化粧の薄い頬には張りがあった。年齢は読み取れない。ステファニーが思うより若いかもしれないし、ずっと年上だとしても納得してしまう。説得力のようなものをまとう女性。知らず知らず、目を奪われていた。唇が開く。 「雪合戦と雪だるま、どちらが好き?」  不意に合った視線に後ろめたさを覚えて、咄嗟に瞳を広場へ逃がした。 「どっちも、別に」 「じゃあ――」  紙袋が騒ぐ。 「――クリームとジャム、どっちが好き?」  ステファニーの鼻先に2つのパンが現れた。焼きたてなのか、色よく形を持ったパンは甘い香りでやわらかく鼻腔を満たす。 「どっちも、別に」  言葉より腹の虫の方が正直だった。 「どちらが好き?」  しっかり女の耳に届いてしまったらしい。見やった笑顔は、どうぞ、と右肩に傾ぐ。 「いらない」 「パン、嫌い?」 「大っ嫌い」  毒気をまとった棘は真っ赤な嘘。ステファニーは何より焼きたてのパンが好きだった。香ばしい香り、ふわっとした食感、かじればたちまち口をいっぱいにするバターの香り。甘い空気を肺いっぱいに吸い込んで、吐き出すのが惜しいほど。 しかしそれ以上に、惨めな思いが大きかった。 「大っ嫌い、かぁ。こんなにおいしいのに」  ステファニーの心中などまったくお構いなし、女は半分に割った片方のパンを頬張る。微風の気まぐれに乗って、悪戯な香りが鼻先を撫でる。腹の虫は、必死に抑え付けた。 「ここのパン屋、裏通りにあるせいであまり知られてないの。こんなに美味しいのにそれももったいないから、うちの店で出してるんだけど」  聞いてもいない事を話し始める。何も、ここに居続ける必要もないじゃないかと考えが頭をもたげ――視界の隅に見知った影を見付けた。      5 クルトの朝食に付き合い、満たした腹ごなしにと街を散歩しているうちに、街全体が目覚め始めた。目覚め始めた気配は手に取るように感じるのだが、通りを通う人影は少なく、主に見られるのは雪掻きする姿。息を潜めるとはまた異なる、住民の吐息を感じる静寂、とでも言うのか、何とも表現のしにくい街をクルトと過ごす時間はレイを飽きさせなかった。 散歩の道すがら、クルトもまた家無しである事を知った。 「捨てられたの?」 「ううん」 「じゃあ、どうして」 「生まれた時には、もう家無しだったんだ」  昨日の天気の話でもしているのかと思う程、クルトの言葉はまるで軽かった。生まれた時には、もう――信じられない。レイにとって彼のこれまでの生活は想像に難く、さながら異世界のようだった。そして少し、羨ましい。 「そうかな」 「うん。ぼくは、羨ましい」  朗らかに笑えるきみが、と付け加えるのを忘れた。 程よく散歩に疲れた頃合いに、昨晩過ごした水門が見えた。 「ひと休みしよう」  提案したレイは、すっかり我が家気分でクルトを招く。 「こりゃまた、いい寝床だ」  クルトは感嘆し、鉄柵をくぐってレイの後に続く。 「久しぶりに、良く眠れそうだよ」  彼の輪郭がかろうじて見える暗闇は、彼の寝息を吸い込んだ。体を横たわらせて、レイもまたまぶたを閉じる。クルトに合わせる呼吸。となりの闇が温かい。まどろみ始めた頭の中で、突如ドアの閉じる音が響いた。  跳ね起きて注意を凝らす。何かが動く気配も、クルト以外の呼吸も、何もない。いくら息を潜めようが、どんなに目を凝らそうが、闇にあるのはクルトの寝息しか見つからない。  小さないびきをひとつ聞いて、強張った体から力が抜け落ちる。空耳か、と唇だけ動いた。思えば、ここにドアがあるはずもない。昨晩、やる事もなく奥まで歩いてはみたが、ドアなんて1枚もなかった事を思い出す。では、あの音は?―― レイの思考に投影されたものは、あのドアだった。 大人しく待ってるんだよ。 まどろみは消え去っていた。まぶたを閉じても埃塗れの寝室が過ぎって落ち着かない。仕方なく身を起こす。またひとつ、小さないびきが聞こえた。羨ましい――呟きともため息ともつかないと息を残して、レイは水門を出た。もしクルトが起きたら、と考えが掠めたものの、あの眠りようであればしばらくは目を覚まさないだろう。根拠などないが、そう結論付けた。何より、レイが戻った時に居なかったとしても、またすぐに会える予感があった。それこそ根拠も論拠もないのだが。 ぶらりと向けた足は広場に辿り着いていた。雪合戦にはしゃぎ回る流れ弾に当たりそうになった事を除けば、至って穏やかに時が流れる。視線を感じて振り向けば、作りかけの雪だるまが片目でレイを見つめていた。制作者と思しき3人の女の子はもう一体の制作に着手しており、もう片方の目を付ける気配はない。レイに向けられた視線は哀願にすら思えてくる。 目、付けてあげなよ――思いこそすれ声に出す事なく、哀願に背を向けた。 「あれ」  と、レイの耳に落ちた声は小さなカサを想起させる。予想は違わずに、ピンクの長靴を履いた少女をベンチに見付けた。 「こんにちは」  昨日とまったく同じ語調。吸い寄せられるように、レイの足は少女の元へ向かう。 「こんにちは」 「あら、お知り合い?」  少女のとなりには女がいた。パンを2つも手にしているのは、よっぽど空腹なのだろうか。女が笑いかける。 「こんにちは。あなたのお名前は?」 「レイ」「レイだよ」  図らずも、レイと少女――ステファニーの声が重なった。 「そう、レイっていうの。素敵な名前ね。私はルコ。ルコ=マーレイ」  ルコ=マーレイ。口の中で反芻する。いい名だと思った。 「あなたも座る?」  ルコは腰をずらして、ステファニーとの間に隙間を作ってくれた。 「ありがとう」  礼を言って腰を下ろす。レイの頭をルコが撫でた。記憶の中のものとは違う、やわらかい感触は温かい。 「綺麗な色」  ルコの笑顔。ここしばらく、自分の姿を見ていなかった事に気付く。かつての言葉を引用するならば、日に当たると虹色に輝く黒髪、と形容される事は誇らしくもあったが、部屋の鏡が白く霞み始めてからは己の姿を覗き込む事もなくなった。 「そう、そう」  レイの頭を離れたルコの手が、膝の上に置かれたパンに伸びる。彼女の手によって2つに割れた片方が、レイへ差し出された。 「このパン、すっごくおいしいのよ。あなたも食べてみて」  ふっくらとした弾力を感じさせる断面にはクリームが詰まっていた。同じ断面を持つ片割れはステファニーに向けられる。とたん、その小さな鼻は不機嫌にそっぽへ向いてしまった。 「だから、パンは嫌いって……」  言葉に反して腹の虫が豪快に主張する。耳まで赤く染まりあがったステファニーはパンをむしり取ると、半ば自暴自棄にかじったのだった。 「おいしいでしょ?」 「まあまあ」  ルコに対してどうしてそこまでとげとげしいのかなどレイが知る由もないが、 「素直においしいって言えばいいのに」 「まあまあ、おいしい」  ちっとも認めやしないステファニーがおかしくて、ちょっかいを掛けたくなる。 「そんなに強がらなくたって」 「何よ」  睨まれてしまい、レイは肩をすくめた。 「おいしいもの持ってるのに、ケンカしないの」  ルコの笑顔が割って入る。ふんっと息を鳴らしながらも、ステファニーはパンに歯を立てた。どうやらお気に召したらしい。 おいしいもの持ってるのに、ケンカしないの。口の中だけで反芻する。いい言葉だと思いながら、レイもパンにかじり付く。ルコは笑って眺めていた。 頭の隅の隅で、何かがことりと鳴った。ような気がする。 「あら」  ルコの顎が浮いた。レイとステファニーの視線が引っ張られる。シスター服に身を包む女がいた。      6 「そう。この子はアリアテ教会の子だったの」  レイと別れて公園を後にする道中、ルコはそう言って、数歩下がって歩くステファニーを見やった。歩幅の小さな彼女が見つめている先はパン屋だった。先程はああも言っていたが、本音はパンが好きなのだろう。それとも、まだ空腹なのかもしれない。成長期真っ只中なのだろうし。 「しょっちゅう出歩く性質なのよ。その度に回収しに行くのが私」  となりを歩くシスターことハルネはため息をつきながら、それでもまんざらでもない様子であった。 「回収だなんて、まるで物扱いね」 「物って言うより、動物って言った方が正確ね。猫よ、ステフは」 「かわいらしい猫ちゃんじゃない?」 「あれでもっと素直であれば、もっともっとかわいいんだけどね」  苦虫を噛み潰すハルネを見て、思わずルコは吹き出した。 「ん?」 「あなただって、あの子に負けず劣らずだったじゃない」  ハルネ、苦笑。 「それ言われたら返す言葉も……誰から聞いたのよ」 「あなたのお母さん」  楽しげなルコへ一度はきょとんとしたものの、合点を得たハルネは笑顔に変わった。懐かしむようで、誇らしげな。 「育ての親だけどね」 「子沢山のお母さんよね」 「大した母親よ」  はにかんだハルネが、後ろを見やって立ち止まる。一歩遅れて、ルコも歩を止めた。 「また、あの子は」  ハルネのぼやきが聞こえる。いつから立ち止っていたのか、道の片隅にしゃがみ込んだステファニーは後方の景色と一体化していた。 「あの子、優しい子なのね」 「急に何?」  怪訝を示したハルネに対して、手品の種明かしをするような口振りで言う。 「猫が寄って来るんだもの」 「そういうもんなの?」 「そういうもんなのよ」  大きな瞳をしきりに瞬かせるシスターを置いてステファニーへ向かう。しゃがみ込んだ小さな体躯の前では、一匹の猫が少女に撫でられるのを良しとしていた。雪を踏み付ける足音で顔を上げ、ルコを一瞥するなりあくびする。 「ステフは猫が好き?」  丸まった少女のとなりで膝を折った。撫でる手は休まぬまま横顔だけが縦に揺れる。 「猫って、寒いとこは苦手なんじゃなかったっけ」  と、ステファニーの後ろに立ったハルネが物珍しそうに猫を眺めた。 「そろそろご飯の時間なんじゃない?」 「ああ、なるほど」  前足を行儀良くそろえて座る猫の背では、一軒のレストランが看板を掲げていた。おそらく料理のお零れを頂戴する算段なのだろう。もしかしたら、とルコは思った事を口にした。 「この子、常連なのかも」  ほぅ、とハルネ。 「ウェルダンのステーキでも注文するの?」 「白身魚のムニエルじゃないかしら」 「グルメで結構な事だわ」 「食後は、きっとエスプレッソね」 「猫舌なのに?」  冷静なハルネの指摘がステファニーの笑いを誘った。 「必死に冷ましながら飲むんだよ」  少女の出した答えは明快で、 「しゃれてるヤツだわ」  ハルネは唸り、ルコは笑んだ。 「それ、素敵ね」  あなたの笑顔も――胸の中で付け加える。 「――そう、猫」  ルコとステファニーが並んで手を振って、オーダーを待つ猫と別れた後に再開した帰路で、ハルネは何かを思い出したようだった。 「猫、がどうかした?」  紙袋を支える手を右から左へ移しながら、ルコが先を促す。ハルネのヴェールが揺れ、数歩後ろにある小さな姿を確認しつつ声のトーンが落ちる。 「ステフ、昨日ケンカしたのよ」 「猫と?」  あんなに猫好きなのに? 信じ難い思いはすぐに打ち消された。 「同じアリアテ教会の子と、よ」 「あのくらいの年頃なら、ケンカくらいするでしょう」 「その原因が猫だった、っていう話」 「猫を取り合ったの?」 「そういう理由であれば、まだ微笑ましいんだけど」  と、ハルネが小首を傾げてみせる。カンカンカン、と鐘の音がする。振り向けば後方から、路上電車が走って来るのが見えた。線路の雪をどける、除雪列車だ。雪が溶ける間くらい休めばいいのにと思う。 ステファニーも気付いたようだった。身の安全を図ってか、道の脇に身を寄せる。もっとも、3人が歩く大通りの幅を考えれば、身を寄せる必要もないのだが。 「で、猫がどう関わったの?」  ハルネへ視線を戻す。彼女もまた、ステファニーに視線を投じていた。 「そう、猫」 「さっきも聞いたわ、それ」 「あの子、猫と遊んでたんだって」  徐々に近付く鐘の音にモーター音が重なり始める。 「猫好きだものね」 「名前も付けてやったって言ってたわ。相当仲良くなったみたい。で、その姿を見かけた子がいたのよ。その子が言うには――」  背後まで迫った列車は小気味良く鐘を叩きながら、ルコとハルネを緩やかに追い抜いた。 「――ステフは独りで遊んでた」 「猫は?」 「その子は見てないって言うのよ。それでステフを嘘つき呼ばわりして、ケンカに発展」 「嘘つくような子には思えないのに」 「サクラもそう言ってる」 「院長が言うなら尚更ね。私よりよっぽど彼女を知ってるだろうし」 「こんな事ってあると思う?」  鼻唄にも似た唸り声の後、ルコの鼻は一度だけひくついた。 「ない事もないわね。そうね、ない事もないわ」 「一人で納得しないでよ」  とハルネがひそめた眉間に、人差し指を当ててやる。 「ハルネに眉間のシワなんて似合わないわ」 「なら教えて」 「教えないなんて言ってないじゃない」  ルコの足が止まる。 「でも、後でいいかしら?」 「後で?」  不満そうに立ち止ったハルネへ、道の脇に建つ一軒を指し示す。陽光を多く室内に取り込む、大きな窓が特徴的な2階建ての建物。入り口のドアには店名である『Anny』と、閉店を宣言する『CLOSED』と記されたプレートが下げられている。 ああ、とハルネが納得。 「ここがルコの店?」  追い付いたステファニーが室内を覗き込む。 「ええ。あなたの散歩コースに、ぜひ加えておいて」 「ルコ」  ハルネにたしなめられた。 「いいじゃない。私の店であれば探す手間も省けるし、何より誤って迷子になる事もないわ」 「だってさ、ハルネ」  ルコの後ろ盾を得て発揮される、ステファニーの強気。 「シスターを付けろ」  渋い顔で、ハルネはそれだけ主張した。 「じゃ、中で待っててくれるかしら? 温かいものでも出すから、片付けるの待ってて」  店に招き入れた2人にアップルティーを振舞い、その間にルコは紙袋の中身を手際良く片付けた。5分後には空っぽになった紙袋を畳み、6分後には菓子を手にして2人に加わり、7分後には小さな茶会となっていた。 「……ルコ」 「このクッキー、おいしいでしょう? お宝見付けた気分になるわよね」 「そうじゃなくて」 「お代わり淹れる?」 「猫の話、忘れてない?」 「……ああ」 「ルコ……」  催した小さな茶会はこうして中断を余儀なくされ、3人は広場に戻った。雪合戦は相も変わらず繰り広げられていた。雪だるまは3体目の制作が進んでいる。白い絨毯を転がる玉から察するに、より大きな雪だるまが出来上がる事だろう。  ルコが向かったのは、先程までステファニーとレイと、並んで座っていたベンチだった。 「あ」  ステファニーの口が小さく開いた。ベンチの上には、ルコの割ったパンの半身が取り残されたままだった。 「ん? パンがどうした?」  不思議がるハルネを通り越して、ルコの左手がステファニーの肩に乗る。 「ステフ。レイと出会った場所、連れてってもらえるかしら?」  彼女の右手が拾い上げたパンは、とうに焼きたての感触を失っていた。 「悪い子ではないと思うけど」  歯形の一つも付いていない断面はすっかり乾き切って、触れた指先でボロボロと崩れる。 「迷子なら、ちゃんと返してあげないとね」      7  レイが戻った水門には変わらず暗闇と静寂が詰め込まれていて、クルトの気配だけが足りなかった。彼がいびきを上げていた辺りを探ってはみたものの、暗闇が誤って吸い込んでしまったのかと思う程、彼の形跡は跡形もない。 「クルト」  呼ぶ名に応える声もない。どこへ行ってしまったのだろう。視界を満遍なく覆う闇をため息で震わせて、レイの足は外へと向かった。 「レイ」  呼ばれて顔を向ける。ひと眠りしてすっきりしたらしい満面の笑顔があった。 「起きたらいないんだもの、どこ行ったのかと思ったよ」 「クルト……」  目を伏せたレイを、クルトが覗き込む。 「レイ?」  揺れるミルクティーの毛色。レイは思わず動いた右手を止めるのも忘れ、彼の頭を撫でた。 「なんか、立場が逆のような気がするんだけど」 「本当だ」  レイの声が洩れる。ひとしきり、されるがままに撫でられていたクルトの鼻が、大きく息を吸い込んだ。 「さ、行こうか」  続けて吐き出された吐息の指す意味が分からない。 「行くって、どこへ?」 「どこって」  豆鉄砲を食らった鳩と同じ顔で、クルトが答える。 「きみがいた家を見せてくれるって、言ったじゃないか」 「言ったっけ」 「言ったよ。今朝、散歩している時に」  言ったような気もするし、一言も口にしていないような気もする。今朝方の記憶だというのに輪郭が曖昧でつかみにくい。はて、彼とどんな会話を交わしていたのだっけ。 「忘れやすいんだね、レイは」  そうかもしれない、と口の中で応えた。 「どこ行ってたの?」  2人そろって歩を進めて早々、クルトが切り出した。太陽の光を受けた髪は金色にも見える。ひょっとしたら、クルトから見るレイは虹色かもしれない。 「広場まで」  言葉少なに紡いで、クルトと出会ったのもまた広場であったと思い出した。 「おもしろいものは見付かった?」 「片目の雪だるま」 「不気味だね」 「あと、女の子」 「女の子?」  クルトのオウム返しの中に、興味と好奇心を見付けた。 「昨日もあった女の子」 「昨日も? どこで?」 「住んでた家の前」 「へぇ、家の前で」  レイの言葉をやたらと繰り返すクルトの瞳が、遠くに飛ぶ。何か見付けたのかと辿って見たが、ルシールを形作る街並には奇異も変化もない。クルトの顔があくびに伸びた。 「クルトは、いつも眠そうだ」  思った事を思ったまま言葉に乗せる。 「こうも晴れやかだとね、ついつい眠くなる」  背伸びしつつ、もにゃもにゃと言うクルト。 「行くの、明日にしようか?」 「大丈夫」  レイの提案は無用だったらしい。あっけらかんとした笑顔が視界で揺れる。 「今日行くのは、都合が悪い?」 「ううん、そんな事ない」 「なら安心だ」  家――かつて住んでいた、と形容するのが正確かもしれないが、昨日の今日でそう言い切ってしまうのも、心のどこかで憚れる。素直にそう打ち明けると、クルトは笑い飛ばした。 「なら、昨日まで住んでいた家、でいいんじゃないの?」  正論だった。 「レイは、変なところで変な風に考えてしまうんだね。性分かな」  曖昧に頷いておく。 何にせよ、昨日まで住んでいた家までの道程は、レイ自身も驚く程にすんなり進んだ。家までつながる紐を手繰り寄せながら歩いているようだ。昨日歩いたばかりの街だというのに。何という事もなく会話のつなぎ程度にそう言うと、クルトは鼻唄交じりに応えた。 「以前に歩いてたのかも」 「そんなはずないよ」 「じゃあ、今朝の散歩で頭に地図ができたんだね」  彼自身のこめかみを指先で叩く。 「ただ歩いてただけなのに?」 「どんな道があるのかはわかるでしょ? あとは、その道がどうつながっているのかがわかれば、自然と地図が出来上がるもんだよ」  妙に説得力のあふれる言葉だった。 「生まれてこの方、伊達に歩き回ってないのさ」  おまけに前向きな思考だった。 「クルトは、すごいね」  本心からの感心が口に出る。面映ゆげに、クルトの眉尻が下がった。 「そんな事ないよ」  心なしか、その声は寂しげにも聞こえた。 もうすぐ――足元から伸びる、石畳の角で曲がる直前の事だった。言い知れぬ不安と動悸が頭痛となってレイのこめかみを押さえ付けた。 「レイ?」  様子に気付いたクルトがレイの額に触れる。大丈夫と唇が動くだけで、口から垂れるのは苦しげな呻き声だけ。額の手が、レイの右手を捕まえる。 「家、もうすぐだろう? そこで休もう」  頷き応えるだけで精一杯だった。知らず知らずの内に、疲れが蓄積していたのだろうか。眠りさえすれば、やり過ごせるものだろうか。 クルトに引っ張られるまま角を曲がる。足元に落ちていた視線を持ち上げる。こめがみが疼いた。三半規管の奥でドアの閉じる音がする。自分の唾を飲む音がはっきりと聴き取れた。 澄んだ空の青に、屋敷の赤い屋根が映えている。クルトの手を握り返す。肩越しに窺える彼の頬は、何か思いつめているようにも見えた。 一歩、また一歩と着実に近付くに連れ、赤い屋根の屋敷は2人に覆い被さらんばかりの存在感で威圧を強めた。手入れされなくなって久しいレンガ造りの肌はあちこちが黒ずみ、白く曇り切った窓は本来の役目を果たしていそうにない。風化とまでは至っていなくとも、朽ちた様相は痩せこけた老人を思わせた。庭の雑草は伸びに伸びて、這い出た手のようだ。屋敷が地中へ引っ張り込まれるのも、時間の問題かもしれない。 門の前。クルトの足が止まる。 頭痛は増すばかりだった。立っているのもやっと。震える膝は今にも崩れそう。 赤い屋根を見上げていたクルトがひと息、吐いた。 「行こう」  踏み出された一歩は、着地する前に引き戻された。 「クルト」  彼の腕にしがみ付いたレイの声が絞り出る。 「明日にしよう。今日は……良くない」 「平気だよ」 「やだ」  その場に踏ん張り頑なに拒否を示したレイの身体を、クルトが抱き寄せた。 「もう、終わりにしよう」      8 「――ここで、レイと会ったのね」  丸みを持ったステファニーの顎がこくりと頷いた。ルシールの南東に広がる住宅街はどこを見ても立派な門構えが立ち並ぶ。リゾート地というわけでもないが、中にはどこぞの誰かの別荘があるとも聞く。ステファニーにとってはとことん無関係で、縁も何も見当たらない話ではあるが。 「周りに溶け込んでるようで、まったく溶け込めてない風体ね」  率直な感想を述べるハルネに倣って、ステファニーとルコもそろって目を上げた。赤い屋根を被ったレンガ造りの2階建て。雑草が鬱蒼と茂り放題の庭、最後に磨かれたのがいつなのか皆目見当も付かない曇った窓、加えて外壁のあちこちにはヒビさえも見受けられる。 「まるで廃墟だわ」 「まるで、じゃなくて、まさに、じゃないかしら」 「ちょっと、ルコ?」  ハルネが戸惑ったのは、ルコが何ら躊躇も見せずに踏み入ったからだった。 「うん?」  押し開いた門に、すでにその身は半分以上入っている。 「うん? じゃなくて」 「心配する事なんて何もないじゃない。心強いシスターも付いてる事だし」 「不法侵入について言ってるなら、シスターより弁護士の方が強いわよ」  ハルネのため息。 「弁護士よりも強い子がいるけれど?」  ルコの視線がステファニーに滑る。なるほど、彼女はそのゆるやかな口調とは裏腹に、ずぶとい神経と思考を持ち合わせているようだった。ハルネの脇からルコを通り抜けたステファニーは、ずいぶんと立派なドアノブに手をかける。鍵は掛かっていない。 「……ルコ」  呆れを隠そうともしない声が聞こえた。 「子どもが入っちゃったなら、保護者として入らざるを得ないわよね」  相対してルコの声が踊る。 「あんた、いい性格してるわ」 「ありがとう」  図太い精神は皮肉にも動じない。 ドアをくぐった先には広々とした空間がレイアウトされていた。2階分を吹き抜ける天井にはシャンデリアがぶら下がる。埃の積もった板張りの床は、ステファニーが一歩踏み出す度にギシギシと呼応する。 「何年も放置されてるみたい」  となりに立ったルコの唇から白い吐息が洩れる。室内だというのに外より冷える。背後で床が鳴った。 「で。ここに何があるって言うの?」  ハルネの疑問はステファニーも抱えたままだった。何故この屋敷に入ったのか、ここに何があるのか、それはレイと関係するものなのか――肝心な解答を、ルコは未だ提示していない。 「実は」  ルコがにっこり笑う。 「私もわからないの」 「おい」  ハルネ、半眼。 「何があるのか見当も付けないまま入ったって言うの? ここで家主なんかと鉢合わせになったりしたら」 「その可能性は低いと思う」  彼女を制したのはステファニーだった。小さい指が部屋の一点を指す。2階へ続く階段の真ん中に陶器らしき破片がぶちまけられていた。転がりながら大破したのだろう、水でも零したように広く散っている。破片すべてが埃で白く変色していた。 「あんな危ないもの、放置しとく?」 「鋭い洞察力ね」 「さすが」  ルコとハルネに頭を撫で回された。 「さらに付け加えるなら、これだけ埃が積もってるのに足跡一つ見当たらないわ。誰も入ってないのでしょう」 「ならいいんだけど」  ルコにとどめを刺され、白旗の代わりにハルネの両手が上がったのだった。 「じゃあ何を探せば――って、それがわからないんだっけ」  気持ちを切り替えて早々ため息に変わる。腰に手を当てたハルネは高い天井を見上げてからぐるりと見回し、 「これだけ広いと、どっから探すのかも迷うわね。何かヒントとか、そういう当てもないの?」 「んー」  ルコの首が傾いたのも数秒、すぐに正位置に戻った。 「とりあえず、回ってみようかしら」 「虱潰しにするしかないのね」 「そういう事」  ゆったりと首肯する彼女の姿は、ステファニーの視界で若き院長と重なった。ルコとサクラは、印象がどこか似ている。 1階にあったのは居間、客室、キッチン。どこもかしこも整頓された家具類は、埃のコーティングが施されている事さえ除けばモデルルームにすら思えてくる。 「生活感に乏しい」  ぽつりと零したハルネに、ステファニーも同感だった。一体いつから人の手が離れたのか知れないが、それにしても生活感の名残りが足りない。 「生活感、発見」  宝探しでも楽しむかのように弾んだルコの声はキッチンから現れた。ステファニーとハルネがそろって覗き込むと、ほら、と冷蔵庫を開いて見せる。うげっ――2人の顔が歪んだ。 「ひどい」  ハルネが呻く。 「くさい」  ステファニーが鼻をつまんだ。 「電気もガスも、水道さえも止められてるみたい」  冷蔵庫の中身は腐食と腐臭でいっぱいだった。閉じる瞬間に垣間見えたのは、おそらくゴキブリの類だろう。ステファニーの背を悪寒が走った。ハルネが絶望めいて呟く。 「なんか、もう、帰りたい」 「ハルネが弱音吐くなんて、珍しい事もあるものね」 「ルコがどうしてそうも楽しげなのか、不思議でならないわ」 「あら。私は毎日が楽しいのよ」  毎日が楽しい――ルコの言葉は特段着飾っている風でもなく、愚直なまでにシンプルで、だからこそ毅然としていた。ルコという人間への興味がステファニーの心に湧く。 「1階には何もないみたい。次は2階ね」  先導するルコの背へ、ハルネが言を投じた。 「ルコ。あんた、何を探してるの?」 「何って」  ロビーと呼ぶに相応しい2階吹き抜けに出たルコの足は、迷いなく階段を目指す。 「何があるのかはわからないのよ。何かがあるとは思うんだけど」  何とも要領の得ない答えばかり。 陶器の残骸をよけて登る階段は思ったより傾斜が低い。踊り場を右に折れる段数に沿って廊下に到着。 「見当は付いてるんでしょう? ルコを見てると、虱潰しっていう探し方には見えない」  ハルネの口調は責めているようではなかった。疑問だから回答を求める、ごく当然な語調。首だけ振り向かせたルコがにっこり笑む。 「実のところ、本当にあるのか自信がないの」 「見当は付いてたわけね」 「大体ね。でも、ここに来てわかった」  薄暗く、まっすぐ続く廊下に貼り付いた、1枚目のドアを素通りする。ルコの後頭部は揺れもしない。彼女の爪先は突き進む。2枚目のドアさえ見向きもしない。突然、ステファニーの腹が鳴った。ハルネの横目が見下ろす。 「おい、食いしん坊。さっきパン食べてたろ」 「……うるさいなぁ」  口を尖らせ、ステファニーが腹を撫でた。彼女の指摘ももっともなのだが、ステファニー自身、わざと鳴らせているわけではない。 また、腹が鳴る。 「成長期はこれだから」  やれやれと首を振るハルネの足を叩いてやった。 「いじわるしないであげて」  ルコの助け船が続ける。 「感受性が高いのよ」 「育ち盛りの間違いじゃなくて?」  軽口を叩くハルネを睨み付けたところで涼しい顔。ルコの足が、3枚目のドアで止まった。 「きっと同調してるだけ」 「同調?」 「そう、同調」  繰り返したルコの語尾に、3度目の腹の虫が被さった。おかしい。ステファニーはちっとも腹が空いていないのに。 「同調って、何に?」  ハルネの眉が上がる。ドアに向いたルコは答えをくれる代わりに微笑した。それが何を示唆しているのか明確にしないままドアを開く。部屋から入った光が顔を照らした。 間。 どちらからともなく、ステファニーとハルネが顔を見合わせる。すぅ、とルコが息を吸う。 「見付けた」  吐息は悲哀を帯びていた。      9  もう、終わりにしよう――クルトはそう言った。確実にそう言った。ほぼゼロの至近距離で、よもや聞き間違うはずがない。聞き間違いようがない。 「何を、終わりにするの」  耳鳴りがする。頭痛が引いていくのがわかった。自分の発した声なのに、他の誰かの声を傍聴しているかのよう。 「今日を、だよ」  寄せた体から直接響くクルトの鼓動。彼の言葉に紐付いた意味を手繰るには、あまりに言葉が欠如している。 「去年も一昨年も、きみはぼくと会ってる。会うたび、きみはぼくを忘れてる」 「そんなはずない」 「ほら、忘れてる」  クルトは寂しげに笑う。 「クルトと会うのは、昨日が初めてだ」 「会ってる。去年も、一昨年も」 「そんなはず」 「そんなはずない。ぼくも思った。きみがぼくを忘れるはずがない」  クルトの体が離れた。 「何度も何度も、この街を散歩してたんだから」 「うそだよ」  彼へ放った声は力なく震えている。 「うそだ」 「うそじゃないよ。きみはここまでの道を憶えていた。この街のどこにいたって、きみはここに着ける」  クルトの瞳から目が離せないでいた。彼の言葉がわからない。わかりたくない。わからないままがいい。 「ぼくは外に出た事なんて」 「外に出ない生活なんて考えられないよ」  諭すように言う彼の耳がピクリと跳ね、屋敷を振り仰ぐ。 「誰かいるみたいだ」  微かではあったが、屋敷の中からはっきりと物音が聞こえた。 「行こう」 「……帰ろう」  引き返そうとしたレイを、素早い身のこなしでクルトが阻む。意志の強い眼差しがレイを射抜いた。 「行こう」 「見たくない」  今、自分は何と言った?――口走ったばかりの自分の言葉を反芻する。見たくない。何を?  取り残された自分。 記憶が降り注いだ。      10 胸騒ぎ。込み上がった衝動はステファニーの身体を突き動かした。彼女自身、どうして行動したのかわからない。わからないまま、ルコの制止の手をすり抜け部屋に飛び込んでいた。 「ステフ!」  ルコの慌てる声。寝室だった。クローゼットと天蓋付きのベッド。空間を持て余しているように置かれたベッドの中央に、目を奪われた。 「こういう事なら、あらかじめ教えといてほしいもんだわ」  静かに、ハルネの声が聞こえた。 「その子が、レイ?」 「レイだよ」  声だけで応えたステファニーの足がゆっくりとベッドに近づく。彼女の足音でレイが振り向く事もない。彼を見て瞬時にわかる事だった。出会った時と同じ黒い毛は、あんなにも雪の中で映えていたのに、今は見る影もない。 「ごめんなさい」 「ルコが謝る事ないわ。飛び込んだのはステフなんだから」 「でも」 「ステフの内面的な事を言ってるなら、きっと大丈夫よ。あの子、サクラも驚くほど慈愛に満ちてるから。トラウマにはならないわ」  背後のやり取りは、ステファニーの耳には届いていなかった。ベッドの上、窓を向いたまま微動だにしないレイは、瞳を閉じているようだった。冷蔵庫を思い出す。腐り果てていた中身。ルコの言葉が頭をかすめる――きっと同調してるだけ。腹の虫は鳴りを潜めていた。 「お腹空かせてたんだね」  ベッドを回り込んで、レイのとなりに慎重に腰を下ろす。白濁した窓から、外の景色なんて見えないに等しい。 「外、出たかったんだよね」  震える唇を噛む。香箱を組んだまま変わり果ててしまった黒猫。彼の脇に、湿った点が落ちた。      11 「――レイ」  背後のクルトにせっつかれながら、開かれたドアの隙間を抜けた途端に名を呼ばれた。懐かしい声だった。 「レイ?」  立ち尽くす彼を訝ったクルトもまた、その存在に気付いた。階段を背にして立つスーツ姿の男はすらりと細長く、針金を思わせる。気品すらまとった所作で帽子が取られ――後ろに撫で付けられた白髪と、皺の多く刻まれた、人の好い笑顔が露わになる。 「長い間、待たせてしまったね」 「どうして……」  我知らず、一歩踏み出していた。次いで、左前脚も。 「どうして、今さら」  待ち侘びていた。ずっと、帰りを待ち侘びていた。四角く切り取られた風景を眺めながら。 「ようやっと、迎えに来れたよ」  老人の元に辿り着いたレイを、しゃがんで迎え入れる。大きな手に撫でられる感触がとても懐かしく、愛しい。 「お友達かな?」 「うん、そう」  ドアの前で行儀良く座るクルトは、安堵するように微笑んでいた。恭しく一礼なんてしてみせる。実際、安堵しているのだろう。会う度に忘れていた事を申し訳なく思う。 「クルトって言うんだ」 「レイがお世話になったね」  照れ笑いを浮かべるクルトがおかしかった。 「さて」  元より下がった老人の眉尻がさらに下がった。レイはヒゲをぴくりと動かして、彼を見上げる。 「言い訳を、聞いてくれるかい?」      12  翌朝を迎えても、積もった雪は解ける気配を見せずに街を白く彩り続けた。昨日と同じ太陽が昇る空は、これまた昨日と同じ、雲一つない晴天。鐘を鳴らしながらゆったりと走る路上電車を横目に、しゃくしゃくと雪の上を踏み歩くピンクの長靴は、『Anny』と記されたドアを見付けるや小走りで駆け寄った。全体重を乗せてドアを引き開けば、頭上でカウベルが揺れる。 「いらっしゃい。小さなお客さん」  カウンターの流し台から、今日の天気にも引けを取らない笑顔が迎え入れてくれた。 「お好きな席にどうぞ」  言われるまでもなく、ステファニーの足はカウンター席へと向かっていた。キッチンカウンターで煮込まれるオニオンスープの香りと、ここから眺める大きな窓がスクリーンを見ているようで、昨日から目を付けていたのだった。 「ご注文は?」 「アップルティー」  これもまた、昨日から気に入ったオーダーである。 「すぐ淹れるわね」  蛇口を締めて準備に取り掛かったルコへ感想を投げかける。 「人、いないんだね」  見回した店内にはルコとステファニーしかいない。横に長いカウンター席は丹念に磨き上げられ、窓際に並ぶテーブル席は日向ぼっこを楽しんでいる。朝陽を吸い込んだ広い空間を独り占めする満足感と、経営不振の不安がステファニーの胸で交錯する。だが、杞憂も甚だしかった。 「まだ開店前だもの」 「え」  ステファニーのまぶたが過剰に瞬いた。慌てて直前の記憶をめくり返したが、『CLOSED』と書かれた札は見当たらない。 「……あれ?」  そもそも、『OPEN』と書かれた札すら目にした記憶がない。ルコがくすりと笑った。 「朝は開店も閉店も出してないのよ。開店時間は決めているけど、その前にお客さんが来たら、その時が開店時間」  ずいぶんと寛容な営業姿勢もあったものだ。 「開店時間、早めればいいのに」 「私が寝坊したら困るでしょう?」  店を持つ者とは思えぬ発言を、笑顔で事も無げにしてくれる。いい性格してる――ハルネの呆れた顔を思い出して、サクラの顔も思い出した。 「お待たせ」 「ありがとう。後でハルネが来るって言ってたよ」  カウンター越しに出されたマグカップは、リンゴの香りを惜し気なく立ち昇らせる。 「ハルネが?」 「サクラも来るって。昨日のお礼が言いたいみたい」 「あらあら。お客さんがいっぱいね」  この店、本当に大丈夫なんだろうか。 せっかくできた新しい散歩の寄り道の、行く末に頼りなさを覚え始めた頃、カウベルが鳴った。 「いらっしゃいませ」  ステファニーの胸中など微塵も知る由のない、ルコの営業スマイルが花開く。サクラとハルネの来店を予想していたステファニーであったが、現れた姿は彼女らのイメージとは遠く離れた、品の良い小柄な老人だった。 「営業中の看板が見当たりませんでしたが、よろしいですかな?」  物腰の低い丁寧な口調と人懐っこい笑顔は、即座にステファニーの好感を得た。 「もちろんです。お好きな席にどうぞ」 「お言葉に甘えて」  その場で脱いだコートを左腕にかけ、黒く縁取った千鳥柄のスーツを嫌味なく自然に着こなす老人は、これまさに紳士、といった風体だった。悠然と窓際の席へ移る足取り、コートをイスの背に掛ける仕草、腰をイスに乗せる動作、くわえたパイプでうまそうに煙をくゆらせる仕草まで。気品に年季を足して人の良さで掛けなければ、こうも綺麗に紳士で割り切れない。 「私が行く」  ルコが用意した水を、ステファニーは半ば強引に奪い取った。驚いた表情を見せたルコだったが、すぐに快諾してくれる。 「こぼさないようにね」  言うまでもないが、ステファニーが積み重ねた十一年の人生において、初めての接客である。 「いらっしゃいませ」  見様見真似のルコの笑顔と口調で、老紳士の前に水を差し出した。 「かわいらしい店員さんですね」  やわらかい声音が鼓膜をつつく。紫煙は甘い香りがした。 「ご注文は?」 「ブレンドコーヒーを、お願いします」 「はい」  老紳士に背を向け、微笑ましく眺めていた女主人の元へと、小走りで駆け寄る。 「ブレンドコーヒーだって」 「ステフ。あなた、接客の才能あるわ」  思いがけぬ賛辞を頂戴した。 ルコの淹れたコーヒーを慎重に持ち運んだテーブルで、老紳士は懐中時計を見つめていた。銀色に磨き抜かれた小振りの時計の縁が、斜陽を反射して煌めく。 「誰かと待ち合わせですか?」  口にしてから、不躾な質問だったと内心恥じた。おまけに、安易な詮索だったとも後悔した。しかし老紳士は意に介さず、 「ええ。大切な友人を待っているんです」 「友人、ですか」  友達、とは違う響きを新鮮に覚えつつ、その友人に興味を抱く。老紳士の友人とはどんな人なのだろう――と思いを馳せる直前に、右手のカップを思い出した。 「あ、ごめんなさい。ブレンドコーヒーです」  慌てるステファニーを咎めるでも茶化すでもなく、老人はくしゃりと笑うのだった。 「ありがとう」  たった5文字の言葉が温かい。彼から贈られた5文字を、大切に大切に抱えて戻ろうとした足は、 「お嬢さん」  呼び止められた。 「お時間はありますか?」  ステファニーの首が傾ぐ。 「コーヒーを持って来て頂いたお礼に、ひとつ、お話を差し上げようと思うのです」 「お話?」 「もちろん、お仕事でお忙しいのであれば」 「大丈夫です。ちょっと待っててください」  老紳士の語尾を勢い良くつかみ取ったステファニーは、カウンター席で放置を受けていたマグカップを手に、彼の向かいの席へ飛び込んだ。ちらりと見やったルコは、鼻唄交じりにスープを煮込んでいる。 「お話って、どんなお話?」  食らい付かんばかりに身を乗り出すステファニー。テーブルに懐中時計を置く老紳士の手は年相応に皺が寄っているものの、肌艶が良かった。ことり、時計が鳴る。 「お嬢さんのお気に召しますかどうか」  老紳士の話は、笑顔で始まった。    ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇  お嬢さんは、海はお好きですか? これからお話しする男も、たいそう海の好きな男でした。一日中海を眺めていたいあまり、高台に家を構えた程です。朝目覚めてすぐ、ベランダに出て海を眺め、昼食後はコーヒー片手に海を眺め、夜ですらベッドに入る前に海を眺める。海に想いを寄せているような男でした。 海が好きなその男が、海を眺めるために建てた家は、立派なお屋敷でした。男一人で住むには手に余るほど広いのです。というのも、男が家を建てる時、建築士に出した注文が、 「ゆったりと海を眺められる家を建ててほしい」  この、ゆったり、を勘違いしてしまったのです。広い家を建てるのだと誤解したまま建てられた結果、だだっ広い家が建ってしまったのです。 しかし、そこから望む海の眺めは男の心をつかみ、建て直す時間もまた惜しかったもので、そのまま住む事にしたのでした。 ええ、お嬢さんであれば建て直す事も考えますでしょう。男は時間が限られていたのですよ。何せ、病を患っていたのですから。 残り少なくなってしまった時間を、ひたむきに想いを寄せる海のそばで過ごしたかったのです。もっとも、掃除するとなると一日では足りないのが、難点でしたが。 男の病は気紛れだったのです。体調の良い時は掃除もこなせますが、ひとたび病が悪さを始めれば、3日でも4日でも寝込んでしまうのです。 医者からもらった薬で幾分体が良くなれば、まず男がするのは?  そうです。海を眺める事です。ベランダのイスでゆったりと海を楽しむのでした。 ある日、ベランダでいつものように海を眺めていた男の元へ、1匹の猫が迷い込んだのです。男のとなりにちょこんと座り、海を眺める黒猫でした。健康そうな黒い毛並みは、太陽の光を受けると虹色に見えるのです。男は黒猫を気に入って、一緒に海を眺める友人ができた事をうれしく思ったのでした。 黒猫と並んで海を楽しむ日々は、そう長くは続きませんでした。 男は週に1回、病院に通っていました。病気の具合を見てもらうのと、薬をもらうためでした。医者は口を酸っぱくして入院を勧めていましたが、 「海が眺められぬ余生ならば、もはや生きる楽しみもない」  と一歩も譲らず、医者の方が渋々譲るしかなかったのです。 海を眺めながら息を引き取りたい――それが、男の願いでした。 その日は、朝から雪のちらつく日でした。病院に行くのが億劫にも思えましたが、何分、薬をもらわなければなりません。黒猫と海を眺めるためには、薬は必要不可欠でした。 「大人しく待ってるんだよ」  黒猫にそう言い置いて、雪の中家を出ます。男の家から病院は、そう遠くありません。用事を済ませたら早く帰宅して、温かいミルクを黒猫と一緒に飲もう。ミルクを片手に、雪の降る海を眺めよう。 男が家に帰る事は、二度とありませんでした。 病院への道で、気紛れな病に倒れてしまったのです。海を眺めながら息を引き取りたい――男の願いは、叶えられませんでした。 黒猫は、男の帰りを待っていました。3日でも、4日でも。季節がいくつも移り変わっても。自分が死んでしまった後も。 黒猫の思いは色褪せる事もなく、ずっと家にあるのでした。人知れずひっそりと息を引き取った黒猫は、街を出歩くようになりました。毎年決まって、男が家を出た日に。そして翌日に家へ戻り、また1年、男を待ち続けるのです。 次の年もまた街に出て、翌日には家に帰り、また1年。 そうやって毎年毎年、黒猫は男を探し求めて、街に出たのでした。 黒猫は気付いていなかったのです。黒猫が本当に探していたのは、自分を見付けてくれる人でした。 やがて黒猫は出会う事ができたのです。 1人の、少女と。    ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇  老紳士の手が懐中時計に伸びる。文字盤を確認した彼は満足そうに頷くと、 「残念ながら、もう時間のようです」  ちっとも残念そうになく笑う。 「ありがとうございました」  彼の笑顔がコーヒーのものだとすれば、ステファニーは釣りを払わなくてはならない。1杯のコーヒーを運んだだけで2回もお礼を言われるなど。 「ほら」  老紳士の声が上機嫌に上がる。 「友人が来たようです」  その笑顔が向く先をステファニーも辿った。カウベルが軽やかに唄う。開いたドアの隙間から、陽光を連れて現れたのは。 「ルコー」 「お邪魔します」  ハルネとサクラが連れ立ってやって来た。 「いらっしゃい。ちょうどいいところに来たわね」  カウンターキッチンからルコの営業スマイルが飛ぶ。ひょっとしたら、その笑顔は営業用ではないのかもしれない――なんて事を、ステファニーは感じ取った。 「お久しぶりです」 「ゆっくりして行って」  いつだって丁寧な物腰のサクラを、こうして並んだルコと比べてみれば、やはり2人は似ているのだと、ステファニーの胸中に確信めいたものが生まれた。 「あれ?」  店内をぐるりと見回したハルネが、眉を上げて首を傾げる。 「ステフ、1人だけ?」  老紳士の姿はなかった。コーヒーカップの黒い水面が朝陽に揺らめく。鼻をすすると、甘い残り香を見付けた。ハルネは怪訝そうに頭を掻きながら、 「ドア開けた時、猫の鳴き声がしたと思ったんだけど」  ステファニーとルコが笑顔を交わす。 今日は朝から晴れやかだ。海を眺めるには、さぞかし絶好の日だろう。 -------------------------------------------------------------------------------- Title : Stray Tom & Tabby Release on Web : 9/12/2009 CC : http://creativecommons.org/licenses/by-nc/2.1/jp/ Mail To : nakosokan@gmail.com 「Stray Tom & Tabby」by nakoso is licensed under a Creative Commons 表示-非営利 2.1 日本 License. Based on a work at http://bottlenovel.blog.shinobi.jp/