その猫が家にやって来たのは、家の前の桜がすっかり青々しく変わった頃だった。 生後二ヶ月の愛くるしさを振りまいてすぐに家族の仲間入りを果たした仔猫は、『トミ』と名付けられ、大いに家族から愛された。  高校に入学したばかりだった私も例に違う事なく、トミと遊ぶ事が日課となり、授業が終わると友人の誘いもそこそこに、飛んで家に帰っていた。 そんな折に父親の転勤が決まり、引っ越さねばならなくなった。聞けば、引っ越し先は都心にほど近い、団地だという。そこは動物を飼うことを禁じており、話題は自然とトミの預け先の話となった。 トミと離れたくない一心で、私は猛烈に反論した。離れるくらいなら、、今の家でトミと暮らす、とも訴えた。しかし両親が許してくれるはずもなく、私の訴えは棄却されるばかりで終わった。トミは、部屋の隅で丸くなっているばかりだった。 引越しの一週間前、トミがいなくなった。 預け先に決まった隣りのマツダさんを訪ねたがトミはおらず、心当たりもないという。トミはきっと、わかっていたのだ。部屋の隅で丸くなって、私たちの話を聞いていたのだ。 トミはとうとう、引っ越す日になっても姿を現す事はなかった。 ――あれから六年。役所勤めの身となった私は、再びこの街に戻って来た。駅前に並ぶ建物も、閑静な住宅街の佇まいも、六年前と変わらない。 変わっている事と言えば、どの家の前にもペットボトルが置いてある事くらいだった。二リットルのペットボトルには水が満たされ、春の柔らかい陽射しを乱反射している。 ここ数年、この街では猫の被害が問題視されていた。気ままな猫たちは勝手に民家に入り、壁やらドアやらに爪痕を残していた。幼い子供を傷つけるといった被害さえある。 どこからか集まるのか、年々増える猫の数と被害に役所も黙っているわけにはいかず、とうとう対策課を立ち上げるに至った。課の人員集めの話を耳にした私は、抱えていた仕事も脇に放って手を挙げたのだった。 対策を練るにはまず現地調査だと、私が派遣される事となった。 もちろん、トミに会えるかもしれないという思いはあった。街への加害者としてのトミと会う覚悟もあった。対策課として会う覚悟が、まだ、ない。 住民たちの話を聞いて回るうちに、猫たちの集まる場所がわかった。街の中心に横たわる山の神社。春の夕日を受けて揺れる、葉擦れの中をくぐり辿り着いた社には、果たして猫たちが集まっていた。 丸くなっていたり、座っていたり、毛づくろいしていたり、顔を洗っていたり。思い思いに神社の敷地で過ごす、何十匹という猫たちの視線が私を射抜く。私は、猫たちの中心で威風堂々と座る一匹の猫を見つめた。その猫もまた、私を見つめ返していた。 トミだと、すぐにわかった。 「トミ」  かつて振りまいていた愛くるしさは名残りもなく、くりくりしていた瞳は三白眼となって私を睨む。視線には敵意しか見られない。 取り巻いていた猫たちが唸り声を上げ始めた。何十もの唸り声が渦を巻き私を包囲する。 「トミ……」  一歩踏み出した私へ、トミが牙を見せた。爪を出し飛びかかったトミを寸でのところでかわす。ひらりと着地したトミが再び飛びかかる。よけようと動いた足が砂利で滑った。爪と牙と獣の瞳が目前に迫り―― 「トミ!」  咄嗟に腰から抜いた拳銃をトミに向けた―― ――常に我関せずと涼しい顔だった、トミ。 うっかり私がこぼした牛乳を浴びてしまった、トミ。 それからしばらく私を警戒していた、トミ。 あれからどうやって仲直りしたんだっけ。 トミ。 トミと眠るベッドは、とても温かかった。 トミと過ごす日々は、とても楽しかった。 トミといる家の中は、とても明るかった。 トミといたすべてが、私には宝物だった―― ――迫る敵意の目。爪。牙。 私の人差し指は引き金を―― 「――なんて事を考えると、猫を飼うのが怖くなっちゃうの」  哀しげにため息をつくキトを、ぼくは紅茶をすすって眺めた。 「どうして拳銃なんて持ってるんだよ」 「猫対策課だったら、持っててもおかしくないでしょ?」 「おかしいよ?」 「おかしくない」  頑として引こうとしないキトが、入口を向いた。 「いらっしゃいませ」  キトが主となっている古本屋の来客は、いつぞやの学生だった。いつもと同じように、キトに紅茶を淹れてもらって過ごす会計机から見える彼の姿は、すぐさま本の林に紛れて見えなくなる。 「飼うとしたら、猫がいいけど」  と、キトは自分のカップに紅茶を注ぎながら、 「そういう事を考えてしまって、飼うに至ってないの」 「まさか、『飼うなら何がいい?』っていう話からそこまで広がるなんて、思いもしなかったよ」 「話なんて、いくらでも広がるものよ」 「古本屋の主らしい言葉だね」  ぼくの言葉を、キトは笑って受け取ってくれた。 話なんて、いくらでも広がる。ぼくとキトの目の前に並ぶ本棚の列なんて、その最たるものなのだろう。 それでも、拳銃はなしだと思う。 -------------------------------------------------------------------------------- Title : キトにまつわるエトセトラ Release on Web : 11/16/2009 CC : http://creativecommons.org/licenses/by-nc/2.1/jp/ Mail To : nakosokan@gmail.com 「キトにまつわるエトセトラ」by nakoso is licensed under a Creative Commons 表示-非営利 2.1 日本 License. Based on a work at http://bottlenovel.blog.shinobi.jp/